発達障害一人暮らし奮闘記

発達障害(おまけに精神障害)診断済みの23歳女が1人でどうにか生きていく記録です。

【エッセイ】『なぜ「発達障害者」はバカなのか』を、バカな発達障害者が読んでみた

あとがきに「正直な感想を」とあったので、正直な感想を。対象は、物議を醸している、この本だ。(もう1ヶ月以上経つけど)

『なぜ「発達障害者」はバカなのか』一般社団法人アイン

まず、大前提として、私はこの本をとても良い本だと感じている。なかなか触れられない部分・医師も当事者も気付きにくい部分に焦点が当てられていた。私も恥ずかしながら、「障害はスペクトラムである」という周知の事実を頭から抜かして、「定型にはわからないだろう」と舌を出したくなる時がある。(内省すると、これは、定型と発達を二分しているというより、羨望や嫉妬や羞恥が絡み合った結果、自分のプライドを表面上上げることで、なけなしのプライドを保っているんだと思う。)

発達障害者が生きやすい社会を作る』という理念も、非常に共感できるものだ。私も、発達障害のバリバリ当事者でありながら、『発達障害者が生きやすい社会を作りたい』と思って仕事をしている。

ただ、なまじ良い本ばかりに、反論したい部分が目立つ。文中で「賛否両論あるだろう」と予想されているのをいいことに、"否"の部分を書いてみようと思う。

※軽く自己紹介。私は20歳で発達障害と診断された。今はクローズで児童指導員として働いている。学歴もないし、知識もあまり無いので、まさにうってつけの「バカな発達障害者」である。

▽ポイント:自助会、当事者会が馴れ合いで終わっているのではないか?意味があるのか?という問題提起

悩みを共有する、知識をつける、居場所になっている…そこよりもっと先を見て欲しい!というの旨の記述があった。

確かに、「もっと先を見て欲しい!」という気持ちはよくわかる。ただ、ここで2つ、気になることがある。

(1)じゃあ、支援者はやることやってんの?

自助会とは、元々アルコール依存症の当事者たちから始まった、同じ悩みや困難を抱える者たちの共有の場である。当事者たちは、そこで悩みや不安を語り合う。一見それは「なれあい」に見えるが、それだけではない。その「なれあい」から、当事者たちは知識や居場所を得ていく。

(私が説明するまでもないと思うけど、この記事を読む全ての人に伝わりやすいように書いておいた。)

何を言いたいかというと、自助会には、自助会だからこそ出やすい効果や、利益がある(正確にはそうとされている)。だからこそ、特に依存症の分野では医師が自助会への参加を薦めるパターンが多い。自助会は決して無意味ではない。発達障害者の自助会においても、「有益な情報が飛び交う」ことは普通にあるだろうし、「傷の舐め合いを経て当事者が過去の自分の体験を消化していく」こともあるだろう。

支援者の役目は、「その先に進め」とハッパをかけることか?違うだろう。

「それは彼/彼女にとって問題の矮小化なのか、それとも体験の消化の手助けになっているのか」「自助会の次のステップを知らないのか、それとも望んでいないのか」「悩みを共有するという段階を終えるまでのフェーズが彼/彼女の場合長いのか、それともきっかけがないのか」という細かいアセスメントを取ること。それに合わせて介入すること。

「自分で動く力がない」なら、「なぜ無いのか」「どうしたら力が付くか」「自分で気づかせるか、こちらがある程度のレベルまで運んでいって成功体験を積ませるか、職員から相談という形で話してみるか」…どの介入が良いか比較検討し、その人により良い介入をすること。

私は就労支援等、大人の発達障害者と仕事上での関わりはない。でも、そんな素人の私がテキトーに考えただけでも、これだけの段階は最低限踏むだろうと予想できる。

じゃあ、今の日本の支援者って、ここまでやってんの?と、私は思ってしまうのだ。本人の自助努力だってもちろん必要だが、それだけじゃ障害があるから、発達障害と診断されているわけで。

発達障害者の自助努力」と「支援者側からの介入」、どちらだけ求めても話は進まない。その意見は著者も持っているようなので、私は後者に少し触れてみました。

(2)他力本願タイプの人って、なりたくてなってるの?

自助タイプ/他力本願タイプという分け方は、非常に面白い。

「自分で頑張ろうとする人」「人に頑張ってもらおうとする人」非常に明瞭だ。わかりやすい。

でも、考えてみた。文中だと、他力本願タイプが多いとされている。では、なぜ他力本願タイプが多いのか?どうして他力本願なのか?

「他力本願タイプの人は、人に頑張ってもらおうとしているのではなく、自分で頑張るというスキルがない」という見方はどうだろうか。

そもそも、自分で頑張ろうとする「自助努力」って、具体的にどういうもんでしょうか。本を読むに、以下のようなことでしょうか?

発達障害スペクトラムであり、自分は連続体の一点であるということを理解する

・自分の障害や特性をより理解してもらうための方策を考える

・考えた方策を実際に行動、実践する

・自分で福祉制度を見つけて利用する

・自分で雇用を見つけ、仕事をしていく

いや、あんた、それ、自助タイプっていうより、知能が高い発達障害グレーゾーンのめちゃホワイト寄りな人ってだけじゃない?というのが正直な所感だ。

あと、「障害や特性に合わせた方策を考える」というのも、素人がすぐ出来ることじゃない。だって、一応、福祉の人はそこのプロフェッショナルとして飯食ってるわけでしょ?ある程度、知識や技術、場合によっては経験が必要だろう。場合によっては、自分が自分に抱いているバイアスを自覚することさえ求められるだろう。やる気と根性のジジョドリョクで問題が解決するなら、みんなやるって。

しかも、みんな、パソコン叩いてたり、肉体労働してたり、作業してたり、日々仕事してたら、そんな専門的な作業できねえ!というのが現実じゃないでしょうか。(就労してる場合ね)

そこをカバー・サポートするのが福祉だと思うんだけどな。違うのかな。支援者の視点から見れば、自助会に行くってことは、自分が動く意欲があるということ。リフレーミングで支援体制考えていくって、福祉の基本だよね?

何か、論点がズレてきたな。

私が言いたいのは、あれです。

・自助努力をするスキルがある=社会適応力が高い人が、自助努力タイプとなる

・自助努力をするスキルがない=社会適応力が低い人が、結果として他力本願タイプになっている

という見方はできないかな?ということ。

この場合、「他力本願じゃなくて自助努力をしろ!」とハッパをかけるより、「自助努力をするためのスキルを身につけていきましょう」というメッセージの方がしっくり来ないかな?

しかし、「意識的に自助努力を怠っているであろう、極々狭い範囲の発達障害当事者」に向けてのメッセージだとしたら、「他力本願じゃなくて自助努力しろ!」という内容はしっくりくるな。でも、そんなに狭い範囲の当事者にアプローチするもんだろうか?気になるところです。

▽ポイント:「定型と発達は違う」と二分することが、自分たちの首を絞めているのでは?

(1)線引きは使いようかもしれない

「定型と発達障害者は違う」「私とあなたたちは違う」という区別が溝を深くするのではないか?というメッセージは、非常に大事だ。数年前の私にこの本を読ませてあげたい。

ただ、1つ引っかかるのは、いわゆる定型発達の人は、「自分たちと同じはずなのに、コイツは無能だ」と見なすこともある…ということ。線引きされていないからこそ発生する無理解や差別もある。逆に言えば、線引きされるからこそ得られる理解や協力もある。特にグレーゾーンの人に対しては。福祉の分野ではスペクトラムでも、医療では診断上「スペクトラムのこの基準からこちらに入ると言える」「スペクトラムのこの基準からこちらに入るとは言えない」という二分がされるわけだし、職場、家庭と、その当事者が所属するコミュニティや概念によるんじゃないかな。究極に言えば、本人にとって有益で周囲に迷惑が掛からないのならば、そう考えることでスムーズに努力していけるのならば、「定型と発達障害者は違う」というメッセージを正しいものとして置いてもいいんじゃないだろうか。二分してる本人は、心からそう思っているのか?そう思うことで自分のプライドを保とうしているのか?単にスペクトラムの概念を知らないだけなのか?定型発達側からそのようなことを言われた過去があるのか?…そこまで分析して、そこを解決してから、初めて「二分すべきではないよ」という声かけが出来るんじゃないか。(現実そこまでの支援ができるものか、という課題はあるだろうが)

「本当はどうか」も大切だけど、「今、どうしたらいいか」を考える柔軟性が、現実の生活では求められるんじゃないだろうか。

で、話を戻して。基本的に、「人と人が分かり合う」ことは出来ない。ここは同意できる。

(2)「誇り高き当事者様」という表現は不快です

「だから、誇り高き当事者様のプライドを理解してもらおうとするのは少し傲慢だ」というような表現があった。これは不快だ。めちゃめちゃ不快。なぜなら、それは間違っていると私は思うからだ。

プライドを、理解してもらおうとすることの、一体何が悪いのか?

この場合プライドの定義が何なのかによっても話は変わるけど、「私はあなたと違ってこうやってきたんだ」「私はあなたと違ってこうなんだ」というのは、『誇り高き当事者様のプライド』というよりは、『確立してきた当事者のアイデンティティ』であり、それは尊重されるべきだろう。

人と人は、わかりあえない。あなたと私は違うし、私とあなたは違う。「話せばわかる」というタイプの人は、自他分離ができていない子供だ。

だからこそ、「私はあなたと違って、こうなんです」という説明は、必要不可欠なものだ。

でも、「発達障害者と定型発達者は二分すべきではない」という考えの基に「発達障害者→定型発達者への説明は傲慢」と仮定するならば、定型発達者→発達障害者への説明も、定型発達者→定型発達者への説明も、同じく傲慢ということになってしまう。「私はあなたと違って、こうなんです」と説明する、相互理解に不可欠なやりとりが、全て傲慢になる…という妙な事態が産まれてしまうのだ。(これも結局、二分して話すことになってしまっているけれど。)

発達障害者側が理解してもらおうとすることが勝手で傲慢だという式は、間違っている。障害をスペクトラムと捉え、定型発達・発達障害者を二分しないのならば、それはたちまち「人が理解してもらおうとすることが勝手で傲慢だ」という式にすり替わってしまうからだ。成り立たないのだ。

誰だって、誇り高きプライドを、確立してきたアイデンティティを持っている。いわゆる定型発達の人も、いわゆる発達障害の人も。誰だって。

それは、誰だって尊重されるべきだろう。どうして「誇り高き」「当事者様」なんて表現で揶揄されなくてはいけないのか?

これは、揚げ足取りか?重箱の隅を突く行為か?そうは思わない。「定型発達と発達障害者を二分するのは良くない」という重要なメッセージを掲げている本だからこそ、この方程式はきちんと揃えるべきじゃないのか。暗に秘められていたメッセージとか、省略した数字とかがあるなら、教えてほしい。私の頭の中で、=に斜め線が付いています。

 

▽最後に

現実は、毎日を生きながらえるのに精一杯だ。

自助会に参加し、なおかつ自助努力をし、実施、改善していく…それが出来る人は、もはや障害者と呼べるのか?

障害の大きな基準は「社会的に困るかどうか」ということだ。そんなPDCAサイクル回す余裕ねえよ!と苦しんでいる人は、一見「他力本願」だけど、見方を変えれば「自助努力をするスキルがない」障害者なのかもしれない。差し伸べられた手を握るも何も、「今手を差し伸べられているのだ」という理解が出来ていないだけかもしれない。

また、文中では他力本願タイプの発達障害者を庇護される子供と揶揄しているが、発達障害者はあくまで支援を受けるべき障害者だ。支援とは、庇護することではない。発達障害者は子供ではない。私は比喩表現を理解するのが苦手なのだが、「良質な介入があれば、その当事者は庇護する子供ではなくなる」と言えば伝わるか。うん。そうじゃないですかね。

そして最後に。「なぜ発達障害者はバカなのか」という問いに対して、発達障害者がバカでなくなったら、もはや彼/彼女は発達障害者と分類されなくなるのではないか?」そして、「なぜ発達障害者の支援者はバカなのか?」という問いを立てたい。

良い本は賛否両論を産むけど、悪い本も賛否両論を産むぜ。私はなんだか、「ある種の方向に向かいたいという希望がある発達障害者/支援者」限定の、狭い考えに感じてならない。

ケンカを売ってるわけでは毛頭ないけれど、同じ人間同士の、わかりあえないあなたと私。ぜひお話してみたいもんですね…とか言っちゃって。

 

以上、バカな発達障害者が『なぜ「発達障害者」はバカなのか』を読んでみた感想でした。

当事者本人に考えさせる目的で言えば、ひとまず私においては、大成功です。こうして賛否両論を産み出す効果まで狙って書かれたんだろうけど、でもなあ。なんか、それは大当たりなんだから、中身をもう少し論理的なものにしたらいいのにな。

…とか書いてみたけど、私は非常にせっかちで、あまのじゃくで、速読してしまうガールなので、読解ミスや論理の飛躍があるだろうと思います。誰でも良いのでぜひ指摘してもらえると嬉しいです!なかなかこんなに長文書くこともないと思うしね!深夜のノリって怖いな〜それではおやすみなさい!