発達障害一人暮らし奮闘記

発達障害(おまけに精神障害)診断済みの23歳女が1人でどうにか生きていく記録です。

【当事者風小説】おとした(解離性障害)

【後藤正樹・その1】
僕がそのDVDを発見した日は、八月十八日。粘りつくような熱帯夜に耐え切れず、寝床から這いずり出し、ちょうど水を飲みに台所へ向かおうとした時だった。

最近、お姉ちゃんはスマホでやけにうるさい動画ばかり見ているし、お母さんは夕方のニュースをぼんやりと見ているだけ。お父さんは最近忙しいらしく、家に帰ってこない。おそらく今日も残業をして、会社で寝泊まりしているんだろう。そんなわけで、我が家には、DVDなんてあるわけないのだ。(昔はディズニーアニメのDVDがたくさんあったけど、「もう誰も見ないでしょ」と、三か月前くらいにお母さんが売ってしまった。)


それなのに、だ。茹だっている夏のリビングで、ソファの端に、ポンと添えられたDVD。それは、何と表現するべきか… 。「すみません、置いておきますね~。恐縮ですッ」とでも言うような、謙遜した顔をしていたのだ。


僕、今にも寝てしまいそうなほど、眠いんだけど… そんな顔をされたら、見るしかないじゃないか!謎の高揚感が湧いてきた。僕以外はぐっすり眠っているようで、お姉ちゃんの部屋からはうるさいイビキが聞こえる。お母さんの部屋の電気も真っ暗。『一体何が見られるんだろう』というワクワクと、『もしかしたら誰かの何かを暴いてしまうかもしれない』というドキドキを覚えながら、僕はDVDをデッキに入れた。


読み込み中という青い文字がしばらく表示された後、若い男の人が画面に映った。

 

【キノシタスグル・その1】
( 長い沈黙の後)

… 落とした。現金二十万円が入った封筒を落としたんだ。そのことに気が付いた瞬間だよ。僕が絶対に死のうと決めたのは。おい、くれぐれも、ガラスよりも繊細な心だなどと笑うなよ。寧ろ、僕の心はカーボンファイバーのように強靭だ。それなのにも関わらず、たかが封筒を落としただけで死を決めたということは、それだけの積み重ねが、塵の積もりが、僕にあったということだ。

 

時に、君、人間は皆ストレスを抱えている。まず、親がせっせと敷いたレールの上を悠々自適と通過する人間がいる。まあ、そんな連中は大概「そんなもん自分で何とかしろ!」と切り捨てたくなるような悩み… 例えば「恋人と上手くいかない」だとか、「進路で悩んでいる」だとか、そういった類だよ… そんなものを、ストレスだと称している。対して、劣悪な環境の中で、家畜よりもぞんざいな扱いを受け、異常な量のストレスを脆弱な脳みそで生き抜かざるを得ない人間もいる。いや、僕が後者だから偉いっていうんじゃないよ。不幸の量でどんぐりの背比べをするのは、極めて愚かだ。不幸な方が偉いなんて、これほどおかしなことはない。

 

つまり、僕が言いたいのは、こうだ。人間は皆ストレスを抱えているが、抱えているストレスの量は違う。質も違う。いわば、人と人は、朝と制汗スプレー。洗濯バサミと朝礼。感謝と爪切り。全くもって別物であって、つまり僕たちは他人を理解することが出来ないんだ。僕は君を理解できないし、君は僕を理解できない。

 

でも、伝えておきたい。僕は弱いわけじゃない。ストレスの量が多いんだ。住む世界が違うんだ。僕は人間として、「キノシタスグル」として、もう既に一生分のストレスを既に浴びたと思うんだよ。今まで飽和していたように見えて、実は着々とその液体は注がれ続けていた。ひたひたのコップから水が溢れ出したんだ。その決定打が、最後の一滴が、現金二十万円が入った封筒を落としたことだったんだ。

 

… 専門学校の学費だったんだ。働きながら資格を取って、転職して、人生やり直そうと思っていた。でも無理だった。僕は運命を信じている。だから死を決めた。そして今、君に最後の挨拶をしている。皮肉なものだけれど、君は僕を理解できない、などと言っておきながら、僕は君に、自分のことを理解してほしいんだよ。


最期に、君と一杯やりたかったけれど、何だかもうあの世に呼ばれている気がするんだ。それにしても、死後の世界を「あの世」と表現するなんて、なかなかナンセンスだよな。… 全く、俺は動画でも喋り過ぎるクセが治らないな。そろそろ行くよ。またどこかで会えることを、心から祈っている。さようなら。

 


【後藤正樹・その2】

 

と、とんでもないものを見つけてしまった。心臓がバクバクとダンスしている。これって、れっきとした、あれじゃないか。自殺予告… いや、遺言?

どれに当てはまるのかはわからないけれど、この若い男の人が死んでしまう、あるいは既に死んでしまっている、その確率は… ほぼ100%だ。思い付きで、頭の中の電流が俊敏に交差する。

お父さんに、「キノシタスグルさんって、知ってる?」とメッセージを入れてみた。「キノシタスグル」はお父さんの同僚であるという推理の元だ。残業なら、まだ起きているだろうし。1分も経たないうちに返信が来た。《知らんなあ》… 《ソファの上にDVDがあって、若い男の人が今から死ぬって言ってるんだ。どうしたらいい?警察?》震える手でそう送信すると、帰ってきたのは、スタンプ1つ。しかも、ボケボケとした顔のネコが《お疲れかニャ?》と言っているヤツ。

 

クソっ。お父さん、ちっとも信じてないな。心底ガッカリした。それにしても、彼の顔… 誰かに似ていたような… と考えた所で、強烈な眠気が僕を襲う。おかしいな。さっきまで、目が冴えていたはずなのに。心の中では、この人を救わなきゃ、と焦っているのに。まるで睡眠薬でも嗅がされたかのように、意識が途絶えそうだ。

 

フラフラしながら、一旦DVDをソファの端に戻したが、何だか、キノシタスグルさんを置き去りにするようで、申し訳なくなった。なので、自分の部屋の勉強机の上に置いてみた。「初めまして、僕が見ちゃってすみません、恐縮ですッ」という謙遜した気持ちで。

 


【後藤正樹・その3】

次の朝。家族は、僕の話を、一切信じなかった。

お母さんは、「DVDなんて無かったわよ。昨日寝る前に、そこらへん掃除したもの」

お姉ちゃんは、「そもそも、私二時くらいまで起きてたよ。正樹の勘違いじゃない?」

お父さんは、「疲れてるんだろう。少し休め。」

 

思わず「人が一人、死のうとしてるんだよ!」と大声を出してしまったけど、そうしたらお母さんにすごく心配されてしまった。無理はない。DVDなんて、どこにも無かったのだ。おかしい。確実におかしい。いくら眠かったとはいえ、自分の勉強机の上に、確実に置いたはずなのに。


もしかしたら、本当に夢だったんじゃないか?そう思いもした。でも、夢じゃなかった。だって、お父さんから来た深夜のメッセージは残っている。ボケボケとした顔の猫の《お疲れかニャ?》スタンプも。


キツネにつままれたような気分で過ごした一日は、何となく実感が無かった。学校で授業を受けていても、塾で自習をしていても、昨日のビデオが脳内で再生される。「キノシタスグル」が気にかかる。


彼は、『例えば「恋人と上手くいかない」だとか、「進路で悩んでいる」とかそういった類』の悩みを、『「そんなもん自分で何とかしろ!」と切り捨てたくなるような悩み』だと言っていた。

 

確かにそうだ。地球の裏側で、カカオがチョコレートになるという単純な事実さえ知らずにカカオを栽培する少年とか、今も飢え死にしそうなどこかの痩せ細った少女とか、そんな子達と比べたら、僕は本当に悠々自適に暮らしている。それでも、悩んでいる。彼女のほのかとは最近ずっとケンカしているし( 「一緒に過ごす時間が短すぎる」「受験前なんだから集中させてくれ」といった調子だ) 、志望する大学だって、僕が行きたい学部はレベルの高い国立大学しかない。特段学力が高いわけでもないから、パッとしない模試の結果と睨めっこして、英単語を頭に詰め込む日々だ。それでもこれも、ある意味青春の1ページになるのだと思っている。信じている。言い聞かせている… 。「後藤くん!後藤正樹く~ん!」


ハッ。名前を呼ばれている。

 

「ここ、どう使ってくれても良いんだけどさ、寝るのはちょっと。見学者もいるからさ。疲れてそうだから、お家でゆっくり寝なさいよ」

 

先生が苦笑いしながらチョコレートを渡してくれた。注意しながらも、気遣いをしてくれるのが嬉しい。さすがに塾の自習室で寝るのは… って、寝てたっけか。ぼんやり考え事をしてはいたけれど。


「すみません、先生。今日は帰ります」

「うん、そうした方がいいよ~。また明日ね、後藤くん」

 

先生は可愛い笑顔でひょいひょいと手を振る。こういう所が、きっと生徒に人気なんだろうなあ。

 

【キノシタスグル・その2】
( 嬉しそうに早口で)

いやあ、まさか返事が来るとはね。驚いたよ。どこの誰だか知らないけど、随分なモノ好きがいたもんだな。

 

それにしても、もう少し口の効き方に気を付けた方がいいんじゃないか。僕は、君に言い返したいところがある。

 

「自殺は人に迷惑をかける」、そう言ったね。確かにそうだ。年に何人も発生する人身事故。首吊り。練炭自殺。どんな方法を取ったって、人に迷惑をかける。でも、考えてみろよ。生きることだって、迷惑に繋がるんだぜ。

日本じゃ安楽死尊厳死もダメ。生命だけ繋いで、生活をせずに暮らしている人が、日本にどれほどいるか。生きても死んでも迷惑をかけるんだったら、僕は死にたいんだよ。僕の心はガラスよりも繊細だと、もう、そう笑われても構わない。僕だって、脆弱な魂になりたくてなったわけじゃない。そして、もう1つ。「どこの誰だか知らないけど。死んでほしくない」、そう言ってくれたね。正直、少し嬉しかったよ。下手に近しい人に言われるより、幾分説得力があった。僕は、そう感じたからこそ、死なずにこうして再びビデオを撮っているわけだしね。

 

何だか、君という人間と、もう少し話をしてみたい。そう思ったんだ。自殺予告を撤回したわけじゃないよ。

でも、君の返答を待っている。

 

【後藤正樹・その4】

返ってきた。二日間も悶々とし続けた結果、「自分もビデオをDVDに焼き、ソファの端に置いておく」という奇策を試した結果、『お返事のDVD』が返ってきた。マジか。


物は試し、と思って「自殺は人に迷惑をかける」「どこの誰だか知らないけど、死んでほしくない」なんて適当なことを言ったら、チクチクと反論された。最初見た時も思ったけど、何だかちょっと嫌味ったらしくて、面倒臭そうな人だな、キノシタスグルさんって。

 

まあ、でも、自殺しなかったのは良かった。いくら夢だったとしても、彼が自殺したとなったら、何となく後味が悪いし。


でも、「君の返答を待っている」なんて言われちゃったらなあ。断れない。面倒というわけではないけれど、何を喋ったらいいものか… 。

 

 

そこから、僕らのやり取りが始まった。場所は、リビングのソファの端。そして、熱帯夜。この条件がそろえば、どうやら僕と「キノシタスグル」のビデオは交換されるらしかった( 涼しい夜に置くと、僕の出したDVDはそのまま放置されるようだ) 。

 

最初は「死にたい」というスグルさんを僕が「良くない」と止めるばかりだった。
しかし、そのうち、スグルさんは「最近は暑すぎる」と辟易とした表情を浮かべ、僕は「今日の塾はキツかった~」と叫びながら伸びをしていた。まるで仲の良い同級生。この頃から、スグルさんのことを家族に話すのを辞めた。どうせ誰も信じないからだ。僕も何度か『幻覚』や『夢』について調べてみたけれど、もう、今はどうでもいい。スグルさんと話すことが、確実に心地良くなっていた。スグルさんも、最近は少し顔色が良くなってきたように見える。この調子で、「死にたい」なんて思わないようになるだろう。僕はそう高を括っていた。

 

次のビデオを見るまでは。

 

【キノシタスグル・その3】

正樹くん、ごめん。ごめんな。今まで楽しかったよ。君みたいな人と話せて良かった。君みたいな人がいる世界なら、そう悪くはないなと、そう思っていたんだ。嘘じゃない。だけど僕は、僕が思っていたよりも随分と脆弱だった。もう、辛いことに耐えるのが嫌になったんだ。ガラスを、もっとグチャグチャに割ってやりたくて、堪らないんだ。


今度こそ、本当に行くよ。今までありがとう。またどこかで会えることを、本当に、心から祈っているよ。

 

【後藤正樹・その5】

スグルさんが頭に包丁を向けた。

止めなきゃ、止めなきゃ、止めなきゃ… 。画面の向こうに手を伸ばしても届かない。頭がグワンと揺れる。

 

画面越しでは、出来ない。

止めろと言うことも。

ナイフを持つ手を叩き落とすことも。

スグルさんを抱き締めることも。

 

無力さが僕の全てを包み込み、ただ惹きつけられるように画面を見ているうちに、何か既視感のようなものを覚えた。

 

この顔、やっぱり、どこかで見たことのあるような… 。

 

 

【キノシタスグル・その4】

 

次の瞬間、稲妻に包まれた僕の脳は撃ち抜かれた。若い男の人は、僕の顔をしていた。
いや。僕の顔をしているんじゃない… 。僕だ。僕なんだ。若い男の人って、キノシタスグルって、僕自身だったんだ。「後藤正樹」は「キノシタスグル」だ。

 

背筋のゾワゾワが止まらない。一体どういうことなんだ。まるでホラーだ。凍り付きながら画面に釘付けになっていると、スグルさんは、包丁をブンと放り投げ、赤ちゃんのように泣き出してしまった。その姿を見て、僕はピンと、何か腑に落ちるものを感じた。


そうか、しんどかったんだ。僕も、キノシタスグルさんも。そうだ。ずっと、辛かった。受験からも、彼女からも、生活からも、逃げたかった。死にたかった。『自分のように恵まれた人間がそんなこと言っちゃいけない』という鎖に繋がれ、知らず知らずのうちに、頭から一切のストレスを排除していたのかもしれない。そう認識した瞬間、目から涙が溢れ出た。グッと心の奥底に押し込めていた。「こんなことで悩むなんて贅沢だ」という自責の念が、固まり、肥大し、抱えきれなくなった僕から放出され、キノシタスグルへと姿を変えていたのだ。

「後藤正樹」の目からも、涙が溢れ出た。感じていたはずの恐怖も、一緒に流れ出ていく。こんなに泣くなんて、いつぶりだろう。呼吸が出来ない。わあ、わあ~ッと小学生のように叫ぶ。あんなに嫌味ったらしくて、面倒臭そうなスグルさんが、今は無性に愛しくてたまらない。なあ、君も、頑張ってきたんだよな。辛かったよな。

 

でも大丈夫だよ、生きてていいんだよ。

 

今なら、その言葉を彼にかけることが出来る。彼だけにではなく、自分にも。

 

親友の肩を抱くような気持ちで、テレビに手をかける。でも、もう返事は来ないとわかっている。その証拠に、画面は既に、真っ暗になっていた。

 

「ありがとう、スグルさん。」

 

八月二十八日、粘りつくような熱帯夜。台所へ行き、麦茶を飲む。夏の茹だっているリビングで、冷えたグラスを腫れた瞼に当てながら、僕は後藤正樹とキノシタスグルに優しい明日が来ることを祈った。