『都会を風切る高級車なんかより、田舎を走る軽トラックの方が、僕には豊かに見える』
そう歌うのは、藍坊主のボーカル、hozzy。今回取り上げる『ラストソング』という曲の、作詞・作曲者でもある。
中学生の時、藍坊主にハマった。「歌詞」「ポエム」なんて枠に収まりきらない、エッセイのようでもあり、小説のようでもある言葉たち。そして、それに劣らぬ音の粒子。藍坊主の音楽は、全てが綿密に計算し尽くされた映画である。
さあ、豊かさは何か?を考えてみよう。『ラストソング』を聴きながら。
▽豊かさとは何でしょうか?
小学生や中学生の国語で、よくこんな文章を読まされた気がする。「科学的進歩が豊かであるとは言い切れません。では、本当の豊かさとは、何でしょうか?」
私たちは、答えを教えてもらえない。もちろん、中には、作者が「これこそ豊かさと言えるでしょう」と説く文章もある。しかし、10年後にそれを覚えている人は、誰一人いないだろう。
なぜか?「豊かさ」という概念は、とても曖昧だから。
「こういうものなんだよ」と説かれても、しっくりこないから。
どれもあやふやで腹の底には落ちないから、忘れてしまう。
▽人間の感性はとても曖昧だ
『ラストソング』の中に、『人間の感性はとても曖昧だ』という歌詞が出てくる。
「豊かさ」とは何か?そう問われた時、きっと誰もが自分なりの答えを出すだろう。そう。広辞苑は機能しない。
『都会を風切る高級車なんかより、田舎を走る軽トラックの方が、僕には豊かに見える』…hozzyが歌うように、『豊かさとは、都会を風切る高級車だ』と答える人もいれば、『豊かさとは、田舎を走る軽トラックだ』と答える人もいる。
▽豊かさは、定義できるか?
①経済的な豊かさ
「都会を風切る高級車」は、『経済的豊かさ』の象徴だ。お金持ちが豊かならば、「田舎を走る軽トラック」は豊かはではない!ということになる。しかし、『都会を風切る高級車なんかより、田舎を走る軽トラックの方が、僕には豊かに見える』という人がいるのだから、経済的な豊かさ=豊か、という方程式は成り立たない。
②身体的・精神的な豊かさ
「五体満足」とか、「健全なメンタリティ」は、豊かといえるのだろうか。確かに、豊かであるに越したことはないとも思える。しかし、「五体不満足」でも、「不健全なメンタリティ」でも、豊かと言える時間や空間を経験することはできるだろう。身体的豊かさ・精神的豊かさ=豊か、という方程式も、成り立たない。
そして、この①も②も、あくまで私の感性に沿って作られた論理だ。人によって式が変わる。=で繋がる方程式を、頭の中に持っている人だっている。他人から見たらバカバカしいかもしれないそれを、自分の幹として必死に生きる人もいる。
つまり。豊かさとは何か?に対する答えは、ない。存在し得ないのだ。
▽結局、豊かさって何?
そんなことをつらつらと考えていると、あの藍坊主の歌詞が、輝く正解に見えてしょうがない。
あの海を青いと思えるなら、それが豊かさだろう。
私は、私の感性は、本当にそうだなあと思う。
豊かさとは、感じること。感じることができること。
あの海を青いと思えること。
セミの声がうるさいと思えること。
他人の手のひらの温かみに触れること。
これらは全て、死者が出来ないことだから。私が生きているという、そのシンプルな事実こそが、豊かさなんじゃないだろうか。