発達障害一人暮らし奮闘記

発達障害(おまけに精神障害)診断済みの23歳女が1人でどうにか生きていく記録です。

【当事者風小説】着ぐるみと人間のハーフ(統合失調症)

すれ違ったおばさんの、顔が、虎だった。

いや。正確には、虎じゃない。虎の着ぐるみだった。秋らしくマスタード色のコートを着たおばさんの顔の部分が、まるまる、虎の着ぐるみの顔になっていたのだ。

 

異世界の物体に、心臓がドクンドクンと熱くなる。後ろを振り返る。ホームには、
忙しなく歩くサラリーマンが溢れている。顔が虎のおばさんなんて、いなかった。


何だ、あれ。単なる俺の見間違い?あまりにも奇天烈すぎる。テレビのドッキリ?
いくらなんでも地味だろう。部下の長澤が昨日の昼休みに言っていた愚痴を思い出
す。『最近ね、娘が旦那の後つけてるんですよ。不倫を疑ってるみたいだけど、夫婦
なのになんか虚しくないですか?』虚しいのかどうかは知らないが、長澤の娘さん
は、尾行する時に変装として、自分の顔を虎の着ぐるみの顔に変えたりするのだろう
か。まさかね。じゃあ、幻覚?… まさか。

 

改札口に向かって歩き出す。そういえば、一人でこんなに考え事をしたのも、久し
ぶりだ。薄給だったミシンのメーカーを辞め、IT企業のヘルプデスクに転職してか
ら、もう二十年になる。仕事はストレスが溜まるが、特段過酷な環境でもない。思い
返せば、入社したての頃は、作業的に仕事をこなすことへの後ろめたさがあり、家庭
を持つ男への嫉妬があった。だが、それも全て時が解決してくれた。何も考えず会社
に向かう。ルーティンとして仕事をこなす。つけっぱなしのテレビをぼんやり眺め
て、気付いたら寝ている。そんな毎日。

 

そこに舞い込んだのが、虎の着ぐるみの顔をしたおばさんだった。謎のおばさんじ
ゃなくて、一生遊んで暮らせる大金とか、俺に惚れ込む美女だったら良かったんだけ
どな。

 

 

一週間が経った。ところで、俺は昼休みが嫌いだ。社員食堂があって、安いから大
抵そこで昼を食うのだが、社内の人間に話しかけられると未だに疲れてしまう。本当
は昼休みが嫌いなんじゃなくて、人が苦手なのかもしれない。長澤は、そんな俺に話
しかけてくれる、珍しい人間の一人だ。まあ、来月には昇進し、俺の上司になってし
まうのだけれど。

 

「お疲れ様っす」

俺の焼き魚定食の前に、ぞんざいに置かれる大盛りコロッケカレー。部下とはい
え、そこそこいい年齢になっている長澤が、いつも学生のようなガッツリした飯を食
うところが、俺は好きだった。

 

虎の着ぐるみの顔をしたおばさん、見たことあるか?そう聞いたら、長澤は何て言
うだろう。「えっ!僕も、東京駅で見かけましたよ」とは行かないだろうな。もしか
したら同じ体験をした人がいるかもしれないと思って、みっちり一時間、インターネ2
ットで調べてみたのだ。慣れないSNSのアプリまでインストールしたが、収穫はゼ
ロ。謎は深まる一方だ。

 

「長澤くんって、遊園地とか行くの?」

 

「あー、たまに行きますよ。ウチのは小学生なんで、やっぱそういうの楽しいみたい
で。金はかかりますけどね」

 

「そういう遊園地とかにさ、動物の着ぐるみっている?」

 

「… 動物の着ぐるみ?よく行くとこは、開園の時間にウサギのが出てきますけど」

 

長澤の怪訝な顔に、我に返る。俺は、一体何を聞いてるんだ。

 

 

虎の顔をしたおばさんを見るようになってから一週間、実は、何十回も虎おばさん
と遭遇していた。時には会社で。時には牛丼屋で。時にはつけっぱなしのテレビの中
で。もちろん、最初に出会った駅にだって、彼女は出没する。

 

俺は、とうとう頭がおかしくなったのだ。考えてみれば、「すれ違ったおばさんの、
顔が、虎だった」と思った時点で、病院に行くべきだったのかもしれない… 。いや。
これはきっと何かの間違いだ。俺は、中年で、小太りの、至って普通のサラリーマン。
大丈夫だって。お前は大丈夫だよ。何度もそう言い聞かせる。

 

しかし、二週間後も経つと、我慢の限界が来た。

メールの返信を寄越さない上司に会うために会議室のドアを開けると、上司の顔
が、オウサマペンギンになっていた。( いや、確かにペンギンみたいな顔立ちだけど。)

電車でうたた寝をした後、フッと顔をあげると、前に座っていたOLの顔が、ペルシ
ャネコの赤ちゃんになっていた。( まるで、ドールハウスにいるフィギュアのようだ
った。)

 

極めつけは、深夜二時に、唐突だった。「大丈夫、これは人だ」と言い聞かせなが
らテレビを観ていると、アナウンサーの顔が、気付けばラッコになっていたのだ。そ
の瞬間、俺は、絶望した。

 

今踏んでいる地面が、まるで一気に消滅するよう。着ぐるみの顔って、何なんだよ。
俺にしか見えていないのか?俺という存在は本当に存在しているのか?

 

まるで、画面越しの異世界だ。自分が実はドールハウスペルシャネコと同じ存在
で、この世界はドールハウスなのかもしれない。俺が生きてきた五十二年間は空想で
しかなく、俺は二歳なのかもしれない… 。

 

頭がズキズキと悲鳴をあげる。心臓がドクンドクンと熱くなる。俺は何だ。ここは
どこだ。助けてくれ。世界が怖い。叫び出しそうだ、と思いながら、既に俺の口から
は獣のような咆哮が飛び出し、俺の体は勢いよく玄関を飛び出す。

 

走った。駆り立てられるままに足を動かし、乱れる呼吸を無いものとし、ただがむ
しゃらに走った。休日もゴロゴロしているだけの体は、既に悲鳴をあげている。
俺が獣なのか、俺が獣に支配されているのか、もはやわからない。もつれる自分の3
足が見える。おい、お前は誰だ。お前は、ドールハウスペルシャネコか?さしずめ
臆病なウサギってとこか?いっそお前を殺してやる。俺は死んでしまいたい。もう、
いっそのこと、全て爆発してしまえ!

 

ピントが上手く合わない視界の中に、見慣れた看板。薄い夕焼け色のスモークが、
脳に直接注ぎ込まれる。あれは、そうだ、二十四時間営業の弁当屋。昔、よく会社帰
りに買いに行ったっけ… 。言葉は脳から失われていても、懐かしさは、流れ込む。
吸い寄せられるように店先にたどり着いた。湿ったおにぎりのにおいに、跪く。体
の強張りが、時間をかけて、抜けていく。

 

「あの… 大丈夫ですか」

 

頭上で声が聞こえる。優しい人が声をかけてくれたのだろうか。いつもなら「大丈
夫です」と淡泊に答えていた。しかし、獣から人間に戻りかけていた俺は、「ダメで
す。もうダメなんです」と、被せ気味の大声で即答した。神様に懇願するような心持
ちだった。

 

脳は濁流。おにぎりのにおいは夕焼け色。橋から見た衒いの無い青空が脳裏を焼き
尽くす。初めて人を泣かせた夜の罪悪感がそこに注がれる。社会人になった日の誇ら
しく若いきらめきが胸を裂く。人から殴られた時の肉体の悲鳴が絡みつく。俺の目か
ら、涙が溢れ出た。

 

「だ、大丈夫ですか?横になります?」

 

優しい手が、俺の爆発した体に触れる。優しさは怖い。手を掴んでワンワン泣いて
しまいそうだし、手に噛みついてしまいそうだ… いや、落ち着け、自分。全く、俺は
どこまで頭がおかしいんだろう。

 

何種類ものイメージが入り混じった辺鄙な体を起こす。リクルートスーツを着た
大学生らしきお姉さんは、なぜか泣きそうになりながら顔を覗き込んでくれた。
「すみません、少し、疲れてたみたいで。ありがとうございます。大丈夫です。」
乱れた呼吸を整えながら、いつものように、そう答える。大丈夫だ。まだ、俺は、
話すことができる。

 

「えっ、でも、大丈夫じゃなさそうです… 」

 

眉間にシワを寄せて「奥さんとか、誰か、連絡した方がいいですか?」と聞くお姉
さん。こんなおっさんにも親切にしてくれるなんて、良い人だな。長澤が、婚約が破
談になって落ち込む俺を心配してくれた時も、こんな表情だったっけ… 。そう考える
と、何だかおかしくなって、俺はフッと笑ってしまった。

 

「あっ。多分、大丈夫そうですね」

 

お姉さんは俺の顔を見て、ちょっと安心したように、そう言った。

 

「えっ?」
「あなた、きっと、大丈夫だと思います。」

 

お姉さんが、何を思ってそう言ったのかはわからない。でも、俺はその言葉によろ
よろと近付き、ストンと身を滑り込ませた。そうだ。俺、きっと、大丈夫だ。


それからというものの、俺は、着ぐるみと人間のハーフを一切見ていない。