発達障害一人暮らし奮闘記

発達障害(おまけに精神障害)診断済みの23歳女が1人でどうにか生きていく記録です。

相席語り(すごく長めの小説風自己紹介)

こんにちは。すうと申します。よろしくお願いいたします。

相席なんて、粋ですね。私、初めてです。

 

名前?ハンドルネームです。少々狭い世界の職業に就いているもので、身分は隠しているんですよ。すうって、シンプルなハンドルネームでしょう?昔、RIP SLYMEにハマっていたので、メンバーのSUさんから丸パクりしたんですよ。って、ごめんなさい。こんなこと興味ないですよね。でも、シンプルで気に入ってるんです。

 

女性にいきなり年齢ですか?いやいや、構いませんよ。今年で23です。

こんな片田舎のバーでねぇ、袖振り合うも他生の縁といいますから、是非お話しましょう。

 

バーに来ているのにアレですけど、私、お酒は弱いんです。今も飲んでるの、レモンサワーだし。えへへ。

 

好きなもの…何だろう…。ディズニーアニメ(ノートルダムの鐘)が好きです。あとは、ペンギン。本(荻原浩三島由紀夫中島敦)。落語(古今亭文菊)。かわいいもの。食べもの(刺身とたまご)。音楽(特にフラワーカンパニーズ)。

 

プレゼンが得意で、曖昧なものが苦手です。あとは…えっ、自己紹介って、何言ったらいいんでしょうか。

 

産まれ?東京ですよ。そこそこ裕福な家庭に産まれました。ビデオなんか見てても、確かに愛されていたし、特段何の異変もなかったです。異変が出てきたのは幼稚園児からですね。

 

幼稚園児時代…ここは暗黒の時代というか、一番キツかった時代なんです。少し母親との関係について、語らせてください。

 

私、とにかく、幼稚園に行くのが嫌だったんです。幼稚園行きのバスには乗れなかったし、毎回「お母さんは私を捨てるんだ」と思っていた。母子分離不安ってやつでしょうか。

 

でもお母さんはいつも優しくて、私もそこそこ幸せで…と思っていたのが、18歳くらいまで。

 

…辛い記憶ってね、忘れちゃうんですよね。「そういえばそうだったな」じゃなくて、完全に忘れちゃうんです。忘れないと生きていけないから。記憶の操作。人間の防衛本能です。

 

少し時系列は飛びますが、大学生になってから、津島先生という方の『セックス依存症になりました。』というマンガを読みました。とても良い作品なんですが、途中で何度も虐待の描写が。中に、暗い押し入れに閉じ込める描写がありました。あまりにもリアルでゾっとする暗闇…それを見た瞬間、脳裏に稲妻が走りました。

 

洗面所の暗闇。電気を点けようとスイッチを探すけど届かない。ゴーッ、ゴーッ、という洗濯機の周る音。母親の「うるさい!」という金切り声。開かないドア。ごめんなさい、と泣き叫ぶ自分の汗ばんだ体…。

 

「叩きでもしないと虐待じゃない」というのは、もう昔の話ですよ。あれは心理的虐待でした。そもそも、叩かれたこともあります。

 

閉じ込めた理由、何だと思いますか。「お友達と欲しいぬいぐるみが一緒だったのに、譲らなかった」ですよ?どうしてそんなことで子どもを閉じ込めることができるのか。

 

いや、私も検討はつくんです。

『○○ちゃんも○○も欲しいんだね。こういう時、どうしたらいいかな?』『じゃんけんと順番だったら、どっちがいい?』と聞くことができなかったんです。私の母親は。誰しも皆そうだけど、母親として、子どもに関わる人として、彼女はあまりにも未熟だったのだと思います。

 

そう気付いた大学生の頃から、私は虐待問題に…特に障害を持つ児童に、深く関心を持つようになりました。でも、母親を心底憎めなかった。彼女もまた、歪んだ家庭の出身だったことを、聞いていたからです。虐待が連鎖するように、歪んだ人格も連鎖するとしたら、私は彼女を完全には憎めない。

 

何より、彼女を憎んでも、あまり意味がないんですよ。例えば私が家を出て、戸籍を移動し、一切の連絡を絶つ。彼女は「ここまで育てたのに」と裏切られた気持ちになるでしょう。私だって、憎しみや近親者のいない孤独感でいてもたってもいられなくなる。

 

不幸な人間が、二人生まれる。これは、悲しいことです。なので、私は、母親が死ぬまで、母親を愛することを「演技する」つもりでいます。

 

正直なところ?そりゃあ…憎いですよ。とても憎い。日常で彼女の息遣いを思い出すと、彼女のファンデーションを顔に塗りたくられたような不快さを感じる。暗闇に閉じ込めて怒鳴るくらいならどうして私を産んだの?と思う。私はあなたの遺伝子を絶対に後世に残さない、と誓う。なんであの時あんなことしたの、と、本当は、そう言って、泣きながら彼女の肩を揺さぶりたい。

 

でも、それをするには彼女はあまりにも小さく、あまりにも老いてしまったんですよね。

 

いわゆる毒親だと思うし、文章の中で「毒親」と表記することもあるけれど、背中があまりにも小さくて、その言葉を投げつけられないんですよ。

 

だから、私は母親を愛することを「演技」します。

でも、嘘じゃないから。彼女を愛する気持ちだって、残っています。優しく抱き締められた時の感覚や、「あなたが好きだから殴るのよ」という甘い言葉は、まだ私の中に残っているから。その時のほころぶような嬉しさを、ほんのちょっぴり頭に残っているまあるいものを、100000倍にして伝えるのです。それは、私なりの愛です。彼女がくれた彼女なりの愛に対して、私が私なりに返せる愛の形は、演技で象られているのです。

 

だから、彼女がこの世からいなくなったら、お墓の前で散々文句をいってやろうと思っています。一番に、「殴る手もとっても痛いのよ」という言葉に全力でハァ?と言い返したいですがね。

 

…と、幼稚園時代はそんなところですかね。初対面なのに、いきなりこんな重い話をしてすみませんね。あ、でも、幼稚園に馴染めなかったのも辛かったですよ。何かあるとすぐ泣いたり、逃亡したり、そんな園児でしたし。泣いている理由を聞かれて、わからなかったから「わからない」と答えたら、先生が「わかんないじゃ、わかんない!」と激昂してきたこともあります。

 

まあ、私は自閉症スペクトラムですし、集団に混じらず1人で校庭のアリの行列を見ていたような園児でしたし、人をムカつかせるような言動があったのだろうと思います。当時は未診断でしたがね。

 

え?自閉症スペクトラムって何かって?…そうですねえ。説明が難しいですね。いわゆる発達障害です。出来ることと出来ないことの凸凹が激しく、社会的に困っている人たちのことですよ。まあ、詳しくは今度調べてみてください。

 

小学校時代?…更に聞きたがるなんて、あなたも物好きですね。じゃあ、あなたの話も、後で聞かせてくださいね。

 

小学生の頃も、幼稚園児だった頃とさほど変わりありませんよ。本が大好きで、高校生向けの読む本を小学校低学年で読んでいた。一人で、ずっと。作家…誰が好きだったかな。西村京太郎とか、東野圭吾とか、北尾トロとかよく読んでましたね。音楽も好きでした。今考えると早熟で嫌な子どもですが、フラワーカンパニーズとかサンボマスターとか東京事変とか。特に、地を這ってきたような楽曲が好きでした。おそらく、自分が既に地を這っていたからでしょうね。共感したんでしょう。

 

体育はからきし出来なかったので、大繩に入れず「すうのせいで負けるよな」と聞こえるように言われました。先生に「できてないのはすうさんだけです」と吊るしあげられたこともありますね。友達はいなかった。あぶれてしまった子がすり寄るようにこちらに来れば、来るもの拒まずで受け入れていましたがね。

そして…そうだなあ…よく男子二人組にからかわれていて、ふくらはぎをいじられたり、パンツの色をこそこそ言われたり、服を引っ張られたりしていました。いじめ?…これはいじめに入るんですかね。確かに辛かったですが、実の親に叩かれるのに比べたら、屁みたいなもんですよ、ええ。これも記憶から消えていて、日常の瞬間にハッと思い出しました。

 

不登校、は、なりませんでしたね…。確かに。何でだろう。休みたいとは思ってましたよ?でも、子どもなりに「休んじゃうとずっと休んじゃう」って感付いてた気がするんです。それはダメだっていうのもわかってたから、頭を本の世界に没頭させて、どうにか学校に通っていた。そんな感じかな。

 

後は…何だろうな…これも、大学生の頃になってから蘇った記憶なんですが、母親によく電気按摩をされていました。『ドリル』という名称で、まるでゲームのように。世代によっては普通の遊びなのかもしれないけれど、私はそれがとても嫌で、だけど嫌なのに快感も感じていて…この葛藤が、今もなお私を苦しめています。電気按摩だけじゃない。耳を舐められました。異性だったらありえないですよね。父親が娘にこんなことしてたら、確実に性的虐待です。でも、同性だったら…私はあれを虐待と呼んでいいのかわからない。だから、より苦しい。しんどい。気持ち悪い。

 

何だか話が逸れましたね。ごめんなさい。小学生時代の話ですよね。でも、楽しいこともありましたよ。本です。本の世界は本当に気持ちが良かった…白紙の中に文字が並んでいる。ただそれだけで、海外にも宇宙にも行けるのですから。

 

こんな話をしていると最悪な子ども生活って感じですけど、中学生は楽しかったんですよ。中高一貫に入って、勉強も学校でトップ5には入れるくらい出来たし、部活も楽しかったし、友達も出来たし。コミュニケーション力不足でトラブルを起こすこともありましたが、友達のフォローもあり、何とか過ごせていました。

 

でも、来ちゃうんですよねー、異変。やはり、平凡な生活にならなかった。

 

そこの学校、中高一貫とはいえ、高校入試があったんですよ。ほぼほぼ進学できる、形だけの高校入試ですけど。

ただ、そこでクラス分けがあった。人見知りで友達を作るのが苦手だった私は、友達と同じ特別クラスに行けるかどうか心配で、夜も眠れなくなっていきました。比喩じゃなくて、ですよ。

 

そこから何かがおかしくなって、映画館で尿意を我慢できず退出しただけで、「おもらししちゃうかも」と思って、授業中、教室にいられなくなりました。神経性頻尿とか、強迫性障害とか、そのあたりなのかな。主治医には適応障害という診断を下されましたが、私は何より悪口が大好きで、クラス分けも乗り越えて、法学部へ行きたかった。傍聴記とかがすごく好きで、弁護士になりたいという夢があったんです。

学校は、確実に私にとって良い居場所でした。でも、症状はどんどん悪化して…。母親は片道何時間もかけて私を中学校へと送り、私はものの10分で教室から飛び出し、また片道何時間もかけて自宅へ戻る…しかも途中で何回もトイレに寄りながら…。

そんな歪んだ日々が続きました。泣きながら「精神科に行かせてくれ」「薬を飲ませてくれ」と訴える子供は、そう滅多にいないでしょう。親も親で、最初は「思春期特有のものだ」と相手にしてくれず、なかなか厳しいものがありましたよ。

 

何より、母親と私も、共依存のようになっていました。もうあの関係には死んでも戻りたくない。

 

…本当に、こんな話、楽しいですか?そうですか。本当に、物好きというかなんというか…。相当ユニークな方ですね。いやいや、褒め言葉ですよ。

 

結局どうなったのかって?入院しました。「便器に顔を突っ込め」っていう幻聴も聴こえだしたので、児童精神科に半年くらい。でも、苦じゃなかったですよ。むしろ、病院は居心地が良かった。優しい看護師さんがいて、しんどさをわかってくれる子どもたちがいて…。私は今でも、あの病院に戻りたいと切に願うのです。一人で暮らしている今も、なかなか快適なものですが、やはりどこか物寂しい。家族とはもうあまり関わりたくないので、一緒には暮らせない。何より、一生を思い返した時に、あの病院が唯一、私を守ってくれた場所なんです…。

 

…不幸自慢のように聞こえてはいませんか?それは良かったです。私は不幸って単語が嫌いでね。だって、不幸自慢とか悲劇のヒロインって、ズルい言葉ですよ。一番不幸な人が偉いの?悲劇のヒロインは最も美しいの?そんなわけないんです。人間は誰しも偉いし、誰しも美しいものなのです。その尺度に不幸という曖昧で主観的な観念が入ってくるなんて、そんなバカな話はありません。私は自分を不幸だとは思っていない。ただ目の前にある幸福を大事にするのみです。

 

すみません、少し熱くなってしまいましたね。ふう。…お水でも頂こうかな。すみませーん、お冷ください!…あなたも宜しければ、何かお飲みになってくださいな。きっと小説なら、そろそろ5000字にでもなるくらい、喋っていますから。

 

でも、いいこともありました。入院中の出来事が印象に残って、障害者を支援するという新たな夢が出来ました。

 

高校では単位が足りなくなったので、通信制の高校へと転校して…。その高校は、とても楽しかったですね。今も仲の良い親友と、ジムに行った後にお肉を食べたりして、結構お金を使って贅沢な遊びをしていました。もちろん、アルバイトをしていたのでそのお金から、ですけど。朝は商業施設の清掃をして、夜はレストランの皿洗い。ポンコツなので、単純作業なのに怒られることもありましたが、何とか働き続けることはできていました。一人での作業が多かったしね。

 

だから、高校は良い時代だったかな。強いて挙げるなら、男関係はダメだった。私はきっと、いつからか、何かが歪んでしまったと思うんですよ。男の人に相手されることでしか安心感を得られなくて、母性なのか、父性なのか、安心感なのか、自己満足なのか…。何かを求めて男の人と会って、セックスしていました。セックスしている間だけは、生きていていいんだよと言われている気がしたんです。当然家族にバレて、軟禁されたり、姉から「妹とは思えない」と言われ、母からは「自分の娘とは思えない」と言われました。父親は泣いていました。性依存のクリニックにも行った。でも治らなかった。

私は『慢性的な空虚感』があって、ずっとセックスするために、風俗の面接に行ったりしていました。結局何か不吉な予感がして、風俗で働くことは無かったのですが。異性に溺れたことは後悔していますが、あと一歩の所で踏みとどまれたことには自分に感謝しています。

 

さて、話を戻しましょう。最初に申し上げたようにそこそこ裕福だったので、大学に行かせてもらいました。

 

大学時代は…。楽しいことも、悲しいことも、たくさんありましたから。思い出すと、まだ食べ頃ではないアボカドのような、変な味がするんですよ。

 

一番印象深いのは、恋愛ですかね。2人お付き合いする機会がありました。そう、こんな私にも出来たんですよ、彼氏。物好きがいるもんだなって感じですよね。

 

でも、どちらも不幸にしてしまったな。ほんの何年前まで、鬼のようにセックスして空虚感を埋めていた人間を、普通の人間が癒せるわけがないんですよね。医者だって治療できなかったのに。

 

まだ私の傷も癒えていないので、深くは書きませんが、きっと2人ともすごく疲れてしまったんだと思います。発達障害と言われても発達障害には見えないし、でも確実に精神障害チックではある私に。え?あ、そうなんです、さっき言った自閉症スペクトラムだけじゃないんですよ。自閉症スペクトラムと、境界性人格構造~統合失調症スペクトラムだと診断されています。

 

どちらも、すごく大好きでした。特に最初の彼のおかげで性依存から抜けられたし、自殺を辞めることができた。ついでに、フラれたショックから目を逸らすために教習所とジムに入会したのですが、そのおかげで自動車免許を取得出来ました。2人目の彼は朴訥として優しい人で、自分の悪しき価値観はかなり塗り替えられました。もう直接は伝えられないけれど、心から感謝しています。

 

学校は、正直そこまで真面目に行ってなかったですね。出席日数ギリギリをキープして、授業はガン寝、試験前日に図書館で詰め込みみたいな、典型的なダメ学生でした。でも卒業する時には優秀賞とか貰っちゃったりして。多分、謎に要領のいいところはあるんだと思います。

 

あと、苦い思い出はサークルかなあ。新しい趣味を作りたいと思って、一念発起して入ったんだけど、圧倒的に実力が足りなくて、浮いてしまって辞めました。これも人生経験なのかな。

 

まあ、そんな若い話は、この辺にしときましょう。私のカシスオレンジもそろそろ無くなりそうですし。

そしてようやく、社会人になるわけです。そうです、社会人なんです、私。何なら未成年に見えるでしょ。ははっ、いいですよ。童顔だってことは自覚してますから。

 

まだ勤めだして一年も経っていませんから、どうにも言えませんが、紛れもなく良い会社ですよ。こんな私を雇い続けてくれているわけですから。

 

業務上でも様々な配慮をして頂いていますし、何かしらの精神障害を持っていることは全員知っていますが、一度も差別や偏見の言葉をかけられたことはありません。そういう純度のようなものが非常に高いというか、皆さん、自然に接してくださいます。だから、しんどいこともたくさんあるけれど、もう足が動かないとなるその日まで、私は働き続けたいと思っています。

 

今は異性に依存することも無くなりました。ただ、振り切れ過ぎて、子宮を取りたい・一生セックスしたくないと思っているので、孤独な未来が見えますが。

 

この社会人パートはね、あまり書くことが無いんですよ。生活は充実しているし、仕事については、今喋ったようなことが全てなんです…。

 

 

確かに、障害はいっぱいありますよ。

職場の騒々しさに毎日耳が死にそうだし、買い物では店員の言葉が聞き取れないし、異常に不器用だし、パニックになると大声出して自傷しちゃうし、歯磨きもろくに出来ないし、公共の場で泣くし。

 

でも、今までの人生を振り返ると、はなまる100点!だと思いますね。

ここから、いい方向へと自分の人生が向かうよう、心から祈っています。

 

強いていうなら、今まで受けてきた他人からの愛の分、私も愛を他人に還したいですね。愛でなくても、何でもいいですけど。金でも感謝でも。

 

いやあ、人生を振り返る機会なんてそうそう無いですから、すごく面白かったです。こんなくだらない話に付き合ってくださって、ありがとうございます。結構楽しいもんですよ。

 

さあ、次は、是非ともあなたのお話を聞かせてくださいませ。一杯奢りますから、吞みながら。夜はまだ長いですよ。