発達障害一人暮らし奮闘記

発達障害(おまけに精神障害)診断済みの23歳女が1人でどうにか生きていく記録です。

【エッセイ】noteに加え、インスタで芸術を爆発させてみた

私が最初に始めたSNSTwitter。その後、たまにnoteを書き殴るようになった。

noteはわりとコメントを頂ける機会も多かった。そういうSNSだから。自分も他の人のnoteを読んだり、ふむふむと頷いたり、「うげ〜しんどい」と、しんどさの流れ弾が来たり…。感情が揺さぶられることは多いし、なかなか面白い。

そんな私が、最近、「爆発」している。

元々破天荒というか、突拍子も無いことをやりがちなタイプではあるのだけれど、急に芸術の熱が来た。今は秋ではなくて、冬なのにも関わらず!

インスタ

https://www.instagram.com/su_zi_mo_do

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障害者アートってどんな感じだろうとふと疑問に思い、調べていたら、触発された。だって、検索して出てきた皆さんのアート、超カッコよかったのだ。

なので、私もアートを描いてみた。そうだ。アートだ。「これはアートです!」こんなもん、言ったもん勝ちである。芸術は爆発だ岡本太郎も、まさかこんな文脈で自分の名言が使われるとは思うまい。ハッハッハ。

こんなこと言うと、アーティストみたいだな。平凡薄給会社員だよ、こちとら。何だかちょっぴり自分が恥ずかしく思えてくる。

でもでも、良いのです。「あたしゃ、アートが好きなんだよッ!」と攻めの姿勢で生きた方が、寿命も延びそうじゃないか。そんなに長く生きたいかと言われれば、そうでもないけど…。

やっぱり、こんな煮え切らないアーティストなんていない気がしてきた。すみません、まだまだアーティストには程遠かったです。

【エッセイ】自分に殺されるのが怖い

「死ぬのが怖い」ではない。「自分に殺される」のが怖い。

私は「自分が自分である」という感覚が薄い。男に動かされていると感じることが多いし、世界をシルバニアファミリーのように感じたり、話している相手をマネキンのように思う時がある。

「自分は自分であり、他の何にも動かされない」という感覚は当たり前のものらしいが、私にはそれがない。限りなく生きている実感を得る日もあるけれど、次の日には、私というものが息を潜めて隠れてしまうのだ。

だから、もはや、希死念慮なのかどうか、わからない。「死にたい」じゃなくて「殺されるかもしれない」なんだもん。「玄関から強盗が入ってきて、ナイフで刺されるかもしれない」だもん。

まあ、中学生の頃は統合失調症と診断されていたので、「きっと殺される」というのは、被害妄想なんだと思う。女のヒステリックな被害妄想じゃなくて、統合失調症の症状である、れっきとした被害妄想。

今は、まだいい。「本当は強盗なんか入ってきてないじゃん」「何を心配してたんだ」と、冷静な時には現実を振り返ることができるから。

でも、どうだろう。自分が妄想に引き込まれて、あちらの世界の住人になってしまい、「殺されるかもしれない」という感覚が非常にリアルになったら。私は「これは妄想だ」と判断できる自信がない。

ストレスが溜まると、再発しやすいと言われる。再発を繰り返すと、どんどん病状が悪化するとも言われる。

ねえ、私、大丈夫でしょうか。

死にたいとは思わなくなってきたけど、殺されたら、きっと、抗う自信がない。本当に怖い。一人暮らしだから、兆候があっても気付かれないかもしれない。

せめてもの想いで、エンディングノートでも書こうかと思っている、齢23。ここまで長い期間精神科の薬を飲んでいるから、自殺率も高いだろうし、体に影響だって出るかもしれない。40くらいには死ぬと想定して、ひとまず、今を生き抜いていきたい。

少し弱気になってしまうこんな日は、お願いしとこう。どうか私を殺さないでください。しんどくても、きっといつかはハッピーになれるから。ね。お茶でも飲んで。人殺しなんかしないで、あなたも楽になってね。

【エッセイ】発達障害当事者、なぜか笑われたエピソードを分析してみるの巻

まあ、よく笑われるんです。私。自分では断じてふざけているつもりなんかないんだけどね。話している相手がプッと笑いだすと、「いや何で笑われたんだ!?」と、心中プチパニックになることも多い。

そこで、記憶にある「笑われたエピソード」を6つ思い返してみた。

能力不足が原因とか、見下されるとか、そういうのは悲しいから抜きで。ちょっぴり面白いハッピー編!

ついでに、ポンコツなりの分析も添えてね!

①史上最悪の笑われエピソード

元アルバイト先の飲み会に行った時の話だ。私が異動してから期間が経っていたので、そこには面識の無い新人さんがいた。

ちょっぴり緊張しながら入室すると、いた!新人さん。イケイケリア充っぽいキレイなお姉さんが、「あ!すうさんですよね!お話聞いてました」とニコニコで話しかけてくれる。そしてその後も、機関銃のように「私は◯月から入社して…」「すうさんは今◯◯の方ですよね?」とトコトン話しかけてくれる。

やっと一息付いた。そう判断した私は、こう言った。「アッ、こちらこそよろしくお願いします、すうです」

このやり取りを聞いていた周囲、一同大爆笑である。

いきなりだが、これは、私が覚えている範囲で一番理解できなかったケースだ。文章で見たら、何一つおかしいことは言っていない。念のため言っておくと、虐められているわけでもない(私が自然体で所属できる、数少ないコミュニティの1つだ)。でも、おかしかったようだ。

聞いてみたら「相手のフランクさに比べた、こちらの礼儀正しさ」「名を名乗る遅さ」が、面白ポイントとのこと。

いやわからん!初対面の人に礼儀正しいのは当たり前だし、名も名乗るだろ!じゃあ何て言うのが正解だったんだよ!とガチギレしたくなる案件でした。いや、本当に、コミュニケーションって激ムズです…。

 

インターン先のやらかしエピソード

保育士としての職を探していた私は、インターンに行った。実際の保育室で軽い面談を受けたのだが、保育室には児童用と思われる小さなイスと、大人用と思われる中くらいのイスがあった。

社員は「座ってください」と言う。(えっ、小さいイスの方がなんとなくいいのかな…?私でも座れそうだし…)と考えた22歳は、5歳児用のイスに座りかけた。

そこで、社員に「いや、さすがにwこちら(大人用イス)でw」と笑われたのである。

それまでは、そこそこ礼儀正しく良い感じでいけてたのに!本命の企業じゃなかったからまだいいものの、恥ずかしい判断ミスだった。要らぬ笑いを取ってしまった。

もはや、発達障害が関係あるのかどうかさえわからない。でも、こんな感じで、「500人に1人がやるミス」を、連発しちゃうんだよねえ。

 

③お疲れさまでした!の後、帰るのが早すぎるエピソード

これはもう、タイトル通りだ。就職したての頃、退勤時刻になったらすぐ打刻をするのがデフォルトだと思っていた。18時になった瞬間、「お疲れ様でした!何かお手伝いできることはありますか?それではお先に失礼します!」をハイスピードでやっていたのだ。

そしたら、風の噂で上長がこう言っていたと知った。「すうさん大丈夫かな、すごいスピードで帰っていくけど、何か大変な事情でもあるのかな…」

いやそうじゃないんだ!すみません!そう思われてしまうのか…!と、心底驚いた。

私の会社はほとんど残業代が出ないので、そういった面もあるんだけど、普通は「キリのいいところで終わらせる」「どうしても今日中にやりたいことをやる」ために、ピッタリに退勤するわけにはいかないらしい。

そもそもキリの良いところで終われるように計画を立て動くべきだし、どうしても今日中にやらなきゃいけないことが毎日あるなら、業務量や業務効率を見直すべきだ。そう思うのだが、これも杓子定規なんだろう。

今は、周りに合わせて、何となくそれっぽく動き、それっぽく退勤している。実は、仕事中で、一番社会人に擬態していると感じる瞬間だ。

 

④謎に堅苦しい言葉使っちゃうエピソード

THE☆アスペルガーっぽい、というエピソードである。ただ、経験上、私の場合は、「堅苦しい人だね」という評価にはならないようだ。

自分で言うのも何だけど、私には(1)外見が幼い(2)若い(3)演技だけど、喋り方はふわっとしている という要素がある。なので、「あの人堅苦しいよね」までは行かず、「いや言葉堅苦しいなw」くらいで済んでいるようだ。

例えば、「これどうですかね?」と聞かれて「大いにアリです」と答えてしまったり。

便秘に良い食べ物の話で、「最近バナナを導入しまして…」と言ってしまったり。

体調を聞かれて「すこぶる元気です」と言ってしまったり。

一時期は自分でも意識して「すごくいいですね〜」「めっちゃ元気です〜」という言葉遣いをしていたんだけど、『しっくり来ない!!!なんかアホっぽい!!!』と違和感しかなかったため、諦めた。

自分を受け入れることはなかなか難しいが、この点に関しては、「これが私っしょ」と割り切ることが出来ている。

 

⑤対子どもor対大人で、人格が変わりすぎるエピソード

学生の頃は、保育士としてアルバイトをしていた。誰しも子どもの前と大人の前では、キャラが変わる。でも私の場合は、それが顕著だったようだ。

アルバイトを卒業する時、上長に言われたことが、とても印象に残っている。「初めてお会いした時は、正直ちょっとこの人大丈夫かなって思ってたんですけど、子どもの前に立つと、本当に同じ人!?ってびっくりするくらい人が変わって…。すごい努力してるんだな、この人大丈夫だ、って思ったんです。」

「正直ちょっとこの人大丈夫かな」と思わせている時点で、社会人として擬態できていなくてアウトなんだけどね。でも、これ言われて、すごく嬉しかった。

たぶん、私、「子どもに対する接し方」を、論理でしか学んでいないんだよ。

実際、コミュニケーションは苦手だけど、保育の本や応用行動分析の事例を読めば、「何を言うべきか」「どんな声色で・態度で・表情で言うべきか」がわかる。ある意味、保育の世界の方がコミュニケートしやすかったのかもしれない。

 

⑥マジでありえない聞き間違えエピソード

これは発達障害というより、APD(聴覚処理障害)のようなエピソードかなあ。でも、よくある。

「水筒」を「沖縄」と聞き間違えたり。

「筆箱」を「たこ焼き」と聞き間違えたり。

もはや文字数しか合っていない。母音さえ合っていない。爆死である。

ただ、これに付随してついてきたのが、笑いだった。

真面目な顔で、全然違うことを言われるのは、面白いらしい。確かにコントや漫才でもよくある手法だ。ラバーガールなんかは、絶妙に会話が成り立たない感じを、上手く使っているよね。

ただ、現実にラバーガールの大水がいたら、なかなか生きづらい。でも、同時に、まあ、確かに面白いだろうなとも思う。一文字も合ってねえじゃん、ってツッコミたくなるだろうし。

なので、「いや、違いますよw」と笑われる瞬間が、私は嫌いじゃない。

 

以上、なぜか笑われたエピソード(ハッピー編)でした。これくらいなら、自分もちょっと面白いし、自己肯定感が下がるまではいかないんだよね。

アンハッピー編は、思い出したくもないね…暇な時にでも書いてみようかなあ。

【エッセイ】私の考えた最強自殺防止法「年末旅行エンジョイ作戦」

このまま線路に身を投げこみたい。いつ自殺してもおかしくない。そんな最悪の毎日から救ってくれるのは、人でもなく、神でもない。旅行である。

旅行に行く予定を立て、実際にレストランやホテルの予約を入れる。胸躍るような、楽しい未来の予定を作る。そうすれば、「この旅行行くまでは、死ねないな…」という気持ちが、ちょっぴり顔を出してくる。

それだけじゃないぜ。そのくらいじゃ自殺の意思は揺るがないだろう。もう少し詳細に描写すると、

①小説やドラマ、映画などの「何かに触れて劇的に自分が変化するシーン」をイメージする(広大な自然を見つめて自殺を思いとどまる、とか)

②目の前の景色や食事に超集中して「劇的に自分が変化している…!」と錯覚させる

こんな感じ。う、なんかちょっとバカっぽいかも?

まあ、つまり、大事なのは「自分を錯覚させること」である。ビバ、イマジネーション!現実と向き合ったら、自殺しちゃうもん。過酷な毎日でも生きていくためには、自分を騙して、錯覚させて、生かすしかないんだよ。「旅行くらいでハッピーになるほど私の苦しみは浅くありまへん!」と思う人には、「甘えるんやない!旅行くらいでハッピーになるよう、イマジネーションを働かせるんやで!」とミッキーボイスで言いたい。

ボロクソでポンコツな現実って、そう簡単に変わるもんじゃない。でも、自分を騙すことなら、すぐにできる。さあ、最高の詐欺師になるんやで!

おふざけは置いといて…ポンコツな私の編み出した、最強の自殺防止法『年末旅行エンジョイ作戦』…なかなかポジティブ&ハッピーでしょ?これで、とりあえず年末までは生きられる。

まあまあ、そんなに険しい顔しないで。参考程度に、2019年、私の『年末旅行エンジョイ作戦』を見てくれ。

貴船神社

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行き先は京都にした。まずは貴船神社。歴史は全然わからないんだけど、なんか有名な神社だった(私は本当に学が無くて困る)。学が無いなりに、「おお…神じゃ神じゃ…」という非日常的な感覚を楽しむ。そうそう、興味と畏怖が混ざった、あの感じだ。

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水占いが気になっていたので、やってみる。死にたいと思っていたのに、未来の占いなんておかしな話だよね。

「病気 軽からず」の言葉に(軽からずかい!)と内心ツッコミを入れる。でも、「願望 思うままなり」なんて、ちょっとウケるな。ぜひ幸せになりたいもんだよ。

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なんか生命力ヤバい大木があった。「生命力強っ!」「私この木より生命力弱くない?」と思いながら、しばらくぼうっと見てしまった。

京都鉄道博物館

境内を少し散歩した後は、京都鉄道博物館に向かう。鉄道も全然わからないんだけど、「車両の中で駅弁が食べられる」という情報に魅力を感じて、ウキウキでやってきた。

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わ、超可愛い。駅弁とか、お弁当とか、大好きなんです。鉄道好きではないけれど、感じる胸のトキメキ。中の展示も、素人でも楽しめるようになっている。

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初代新幹線。調子に乗って1人なのに写真を撮ってもらう。「初代なのでゼロのポーズで!」とお姉さんに言われ、はにかむ21歳。そしてガニ股。

トロッコ列車も乗った。のどかで、大変良かった。

京都水族館

鉄道博物館を後にした私が向かうのは、京都水族館鉄道博物館のすぐ近くにある。実は、水族館は結構好きだ。愛しのペンギンを見に行く。

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可愛い。可愛すぎる。5分程度で通り過ぎていく人が多い中、巣作りを手伝う健気なペンギンを長時間ガン見。ちょっと怪しいかもしれないけど、ペンギンが可愛いので、やむを得ない。

④AWOMB

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夕飯は、ちょっと豪華にした。なんと、手巻き寿司。見た目がフォトジェニックで可愛らしい。塩?薬味?の説明も丁寧にしてくださったのだが、するりと耳から抜けていく。ま、いいよね。1人で寿司を巻いて食べていく。いつもは口にしない、高級っぽい味。ちょっと大人の気分。

⑤ホテル

宿は、特にこだわりが無かったので節約してゲストハウスに泊まった。相部屋で、ベッドだけが簡素に並んでいるような場所。いつかは、ちょっと良いホテルなんかに泊まれるといいな。

⑥おばんざい

朝ごはんも、ちょっと贅沢。おばんざいを食べた。

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実は朝寝坊したし、店名も忘れてしまったけれど、気にしない。旅の恥はかき捨て。意味が違う気がするけど、旅の恥はかき捨て!そう言い聞かせる。なんてったって、楽しい旅行中だからね。

劇団四季

そして、今回の旅行のメインイベント。劇団四季ノートルダムの鐘を観に行く。私はディズニーアニメ『ノートルダムの鐘』が大好きだから、ずっと観に行きたかったのだ。醜い外見という障害を抱えるカジモドに、ずっと自分を重ねてきた。

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『年末エンジョイ法』と言いながら、まだ11月な所は甘く見てほしい。チケットが安い日を狙った。ミュージカルはめちゃめちゃ良くて(特に音楽が重厚すぎて)、ちょっと放心状態になった。

⑧宝厳院

お楽しみはまだ終わらない。宝厳院のライトアップを見た。道中、人力車の勧誘?を上手く断れなくてちょっと嫌だったけど、ライトアップがあまりにピカンピカンと美しいから、それも忘れる。

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リラックマ茶房

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リラックマのかわいいパフェも食べる。

⑩キモノフォレスト

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キモノフォレストも楽しむ。

 

いやー、満足満足。2日間にしてはよくやったんじゃないか。この他にも、お土産やさんを巡ったり、公園を散歩したりと、色々した。すごく、すごく楽しかった。誰かに頼るわけでもなく、1人でこんなに楽しい時間を過ごしている!ということが、また良かった。

 

…と、こんな感じなんです。年末旅行エンジョイ作戦。

実際は、旅行の1週間前とか、ふらっと死にたいなぁなんて思ってるんだけどね。旅行自体がすごく楽しかったのは本当。少し自分を錯覚させて、楽しいな〜ってイメージして…そうすれば、本当に楽しくなってくるんだよ。そう、自分に魔法をかけるんだ。

私の次なる目標は、パリのノートルダム。と言っても、火事で焼けてしまったから、生きているうちに叶うかどうかわからない。せめてパリの街かな。世界のディズニーランドにも行きたい!もしもこの先自殺することになったら、パリとワールドディズニーに行ってからね。そう自分と約束しました。

どうでしょう?ちょっと能天気かな。こんなに上手くは行かないかもしれないけど、皆さんも、どうせ死ぬなら、一旅行。楽しんでからにしませんか。

【エッセイ】スーパーで楽しげにカートを押す3人家族を見ると胸が苦しくなる

私にとっての桃源郷、ある人にとっては、当たり前の日常生活なんだよな。

スーパーに行くと、そう感じる。

 

スーパーには、色んな人がいる。ちらと目を配るだけでも、結構面白いもんだ。手始めは、ホットケーキミックスを買いにきた私。お酒コーナーでうろうろしているおじさん。覚束ない足取りでカードを押すおばあちゃん。そして、楽しげにカートを押す、3人家族。

この「楽しげにカートを押す、3人家族」が、一番キツい。なぜなら、とても幸せそうで、とても楽しそうだから。

そして、それは、私が人生で最も手に入れたい種類の幸せだから。「私はそれを手に入れられない」ということを、改めて思い出してしまうから。

もちろん、「この3人家族は何の悩みもない幸せな一般人だ」なんて思ってないよ。彼らには彼らなりの悩みや苦しみやしんどさがある。もしかしたら、お父さんは辛い過去を持っているのかもしれない。お母さんは体が悪いのかもしれない。子どもは重い持病を持っているのかもしれない。いや、「ママ友が面倒なのよ」という悩みだとしたって、立派な悩みだ。悩みは比べるものじゃない。べらぼうに、彼らが平和ボケしていると決めつけることはできない。

だけど、私は性格が悪いから、つい僻んでしまう。「何だよ、幸せそうじゃん」と。

家族がいる。

楽しげに笑い合える家族がいる。

楽しげに笑い合えて、一緒にスーパーに来られる家族がいる。

それは、私にとっての、桃源郷だ。

そんな私にも、ちゃーんと、家族がいる。4人家族。そこそこ裕福な都内暮らし。私が末っ子。アルバムに写真が残っている。昔は一緒に笑い合ってスーパーに行ったことだってあった。母親に叱られるのは怖かったけど、楽しい瞬間だってあった。家族で旅行に行ったことだってある。

でも、もう出来ない。もう取り戻せない。私がおかしくなったから。私が発達障害で、挙げ句の果てに「声が聴こえる」とか言ってトイレから出られなくなって精神科に入院して、退院したと思えばおじさんとセックスしまくったから。犯罪スレスレのだらしのない女だったから。家族はもう、誰も、私を家の次女としては見ていない。これからもずっと。

楽しげにカートを押す3人家族を見ると、胸が苦しい。しんどい。キツい。私は、どうしたらこの家族みたいに笑えたんだろう?いや、笑えていたはずなのに、どうして笑えなくなってしまったんだろう。右手に握りしめたホットケーキミックスがやけに安っぽく思える。ホットケーキを作ろうとウキウキしていた自分が、すごくバカみたいだ。この感情に当てはまる熟語は、何だろう…今のところ「羨望」ってところだけど、もっともっと酸っぱくて吐きそうな。

犯した罪は重い。私は犯罪を犯したわけではないけど(それがせめてもの救い)、罪というのは、犯罪に限らない。私は自分のしたことを罪だと思っている。娘が、発達障害で、かと思えば精神科に入院して、退院したらセックス溺れなんて、家族はさぞ嫌だったろう。実際面と向かって「申し訳ないけど娘とは思えない」とも言われた。その声の調子を、私は今でも正確に記譜することが出来る。脳に刻まれている。私は、娘としても、女としても、人間としても、欠陥品。クズ。ポンコツ。そう刻まれている。

安定して働いているところを見せる。少しずつでもお金を返す。年に数回だけ会い、安心してもらう。それが、せめてもの親不孝への償いだ。だって、両親には安心した状態で死んでほしい。娘が今もこんなに苦しんでいるって知ったまま死ぬなんて、きっと辛いと思うから。両親の死を願っているわけでは決してない。でも、「両親に安心した状態で死んでほしい」という私の願望はびくともしない頑丈さを有している。もし叶えられなかったら、文字通り生きていけない。叶えられないくらいだったら、文字通り死ぬ。死ななきゃいけなくなる。だから、私、両親が死んだらホッとすると思う。最低だよね。さすが欠陥品、クズ、ポンコツ。頭の中まで最低だよ。

これも買っとくか。ヨーグルトをカートに載せた。私はこんなに汚いことを考えているのに、このスーパーにいる周りの人は、私がイジイジとこんなことを考えているって、気付いていない。そう思うとなんだか不思議だ。そうか、もしかしたら、こんなありふれたスーパーの中で、皆も意外と色々なことを考えているのかもしれない。皆それぞれ何かを抱えて、それでも生きているのかな。若い夫婦がなんだか騒々しく世間話をしながら真横を通り過ぎていく。

帰ったら、すぐにでもホットケーキを焼こう。胸は苦しいけど、しんどいけど、キツいけど、きっとその美味しさを、私は感じることができるはずだ。

 

【エッセイ】母親を、「はるこさん」と呼ぶことにした

「お母さんと思うから、辛くなるんじゃないか?」

深夜0時。コンビニで買った焼き鳥(カワ・塩)を食べながら歩いていた私は、ふとそう思った。

彼氏とバイバイした後、家に帰りたくなくて、マックで粘っていた。そんなに好きじゃないアイスコーヒーを飲みながら大学の課題をやる気なくポチポチ片付け、最寄駅のセブンイレブンで焼き鳥を買い、モソモソ食べながら家まで歩いていた。

帰りたくないなあ…どうしてこんな状態なんだろ…。考えているうちに、気付いた。

私、「お母さんなら、◯◯してくれるはずだ」という思い込みがあるんだ。

 

(お母さんなら、私の気持ちに気づいてくれるはず。)

(お母さんなら、ドーンと構えていてくれるはず。)

(お母さんなら、私よりも強い人間なはず。)

(お母さんなら、どんな時でも、私を愛してくれるはず…。)

そんな"思い込み"があるから、現実とのギャップに苦しむのだ。

…まあ、「どんな時でも、私を愛してくれる」というのは、思い込みというより真実であって欲しかったけどさ。

じゃあ、「お母さん」と思わなければいい。「お母さん」と呼ぶのをやめて、「はるこさん」と本名で呼んでみるのはどうだろう。

 

でも、待てよ。直接いきなり「はるこさん、おはよう」なんて言い出したら怪しまれる。変に勘のいい春子さんは「私のこと母親と思ってないんでしょ!?」と机を叩いてしまうかもしれない…

焼き鳥をモグモグと咀嚼しながらそう考えた私は、自分の脳内でだけ、母親のことを「はるこさん」と呼ぶことにした。

 

次の日から、世界が、ちょっぴり変化した。

(あ、はるこさんが、機嫌悪そう。)

(あ、はるこさん、今日もシンクに洗い物がすごく溜まってる。私にも洗わせてくれたらいいのにな。)

(あ、はるこさん、すごく苦しんでいるな。私のことは、見えてないんだろうな。)

 

まるで「他人」のように、「利用者」のように、「対象者」のように母親を捉える。それで、気分が、とても楽になった。

私と母は別の人間。母は自分が生き抜くのに精一杯で、私のことを見ているようで見ていない。

そんなキツイ現実を、私は第三者視点で冷静に見ることができた。「はるこさん」と本名で呼ぶことは、その大きな手助けになった。

 

それから、私は、ずっと、母親のことを「お母さん」とは思っていない。「はるこさん」はお母さんじゃない。長らく一緒に暮らしていた、48歳の、おばさん。そこそこいい人だと思う。うん。多分。家族なわけでもないし、そんなに気にしないでおこう、と思っている。

私は親不孝かもしれない。私は残酷なのかもしれない。でも、これで少しだけ気楽に生きられるのなら、別にいいじゃん!誰にも迷惑かけてないし!と開き直る自分もいる。うん。私は今のこの状態が、とても居心地良い。

…というわけで、親と(もしくは子供と)上手く行かない皆さん、「◯◯さん」呼び、オススメです。罪悪感なんて覚えなくていいよ。自分が少しでもハッピーに生きられるのなら、これくらい、チョロいもんでっせ。

【エッセイ】『なぜ「発達障害者」はバカなのか』を、バカな発達障害者が読んでみた

あとがきに「正直な感想を」とあったので、正直な感想を。対象は、物議を醸している、この本だ。(もう1ヶ月以上経つけど)

『なぜ「発達障害者」はバカなのか』一般社団法人アイン

まず、大前提として、私はこの本をとても良い本だと感じている。なかなか触れられない部分・医師も当事者も気付きにくい部分に焦点が当てられていた。私も恥ずかしながら、「障害はスペクトラムである」という周知の事実を頭から抜かして、「定型にはわからないだろう」と舌を出したくなる時がある。(内省すると、これは、定型と発達を二分しているというより、羨望や嫉妬や羞恥が絡み合った結果、自分のプライドを表面上上げることで、なけなしのプライドを保っているんだと思う。)

発達障害者が生きやすい社会を作る』という理念も、非常に共感できるものだ。私も、発達障害のバリバリ当事者でありながら、『発達障害者が生きやすい社会を作りたい』と思って仕事をしている。

ただ、なまじ良い本ばかりに、反論したい部分が目立つ。文中で「賛否両論あるだろう」と予想されているのをいいことに、"否"の部分を書いてみようと思う。

※軽く自己紹介。私は20歳で発達障害と診断された。今はクローズで児童指導員として働いている。学歴もないし、知識もあまり無いので、まさにうってつけの「バカな発達障害者」である。

▽ポイント:自助会、当事者会が馴れ合いで終わっているのではないか?意味があるのか?という問題提起

悩みを共有する、知識をつける、居場所になっている…そこよりもっと先を見て欲しい!というの旨の記述があった。

確かに、「もっと先を見て欲しい!」という気持ちはよくわかる。ただ、ここで2つ、気になることがある。

(1)じゃあ、支援者はやることやってんの?

自助会とは、元々アルコール依存症の当事者たちから始まった、同じ悩みや困難を抱える者たちの共有の場である。当事者たちは、そこで悩みや不安を語り合う。一見それは「なれあい」に見えるが、それだけではない。その「なれあい」から、当事者たちは知識や居場所を得ていく。

(私が説明するまでもないと思うけど、この記事を読む全ての人に伝わりやすいように書いておいた。)

何を言いたいかというと、自助会には、自助会だからこそ出やすい効果や、利益がある(正確にはそうとされている)。だからこそ、特に依存症の分野では医師が自助会への参加を薦めるパターンが多い。自助会は決して無意味ではない。発達障害者の自助会においても、「有益な情報が飛び交う」ことは普通にあるだろうし、「傷の舐め合いを経て当事者が過去の自分の体験を消化していく」こともあるだろう。

支援者の役目は、「その先に進め」とハッパをかけることか?違うだろう。

「それは彼/彼女にとって問題の矮小化なのか、それとも体験の消化の手助けになっているのか」「自助会の次のステップを知らないのか、それとも望んでいないのか」「悩みを共有するという段階を終えるまでのフェーズが彼/彼女の場合長いのか、それともきっかけがないのか」という細かいアセスメントを取ること。それに合わせて介入すること。

「自分で動く力がない」なら、「なぜ無いのか」「どうしたら力が付くか」「自分で気づかせるか、こちらがある程度のレベルまで運んでいって成功体験を積ませるか、職員から相談という形で話してみるか」…どの介入が良いか比較検討し、その人により良い介入をすること。

私は就労支援等、大人の発達障害者と仕事上での関わりはない。でも、そんな素人の私がテキトーに考えただけでも、これだけの段階は最低限踏むだろうと予想できる。

じゃあ、今の日本の支援者って、ここまでやってんの?と、私は思ってしまうのだ。本人の自助努力だってもちろん必要だが、それだけじゃ障害があるから、発達障害と診断されているわけで。

発達障害者の自助努力」と「支援者側からの介入」、どちらだけ求めても話は進まない。その意見は著者も持っているようなので、私は後者に少し触れてみました。

(2)他力本願タイプの人って、なりたくてなってるの?

自助タイプ/他力本願タイプという分け方は、非常に面白い。

「自分で頑張ろうとする人」「人に頑張ってもらおうとする人」非常に明瞭だ。わかりやすい。

でも、考えてみた。文中だと、他力本願タイプが多いとされている。では、なぜ他力本願タイプが多いのか?どうして他力本願なのか?

「他力本願タイプの人は、人に頑張ってもらおうとしているのではなく、自分で頑張るというスキルがない」という見方はどうだろうか。

そもそも、自分で頑張ろうとする「自助努力」って、具体的にどういうもんでしょうか。本を読むに、以下のようなことでしょうか?

発達障害スペクトラムであり、自分は連続体の一点であるということを理解する

・自分の障害や特性をより理解してもらうための方策を考える

・考えた方策を実際に行動、実践する

・自分で福祉制度を見つけて利用する

・自分で雇用を見つけ、仕事をしていく

いや、あんた、それ、自助タイプっていうより、知能が高い発達障害グレーゾーンのめちゃホワイト寄りな人ってだけじゃない?というのが正直な所感だ。

あと、「障害や特性に合わせた方策を考える」というのも、素人がすぐ出来ることじゃない。だって、一応、福祉の人はそこのプロフェッショナルとして飯食ってるわけでしょ?ある程度、知識や技術、場合によっては経験が必要だろう。場合によっては、自分が自分に抱いているバイアスを自覚することさえ求められるだろう。やる気と根性のジジョドリョクで問題が解決するなら、みんなやるって。

しかも、みんな、パソコン叩いてたり、肉体労働してたり、作業してたり、日々仕事してたら、そんな専門的な作業できねえ!というのが現実じゃないでしょうか。(就労してる場合ね)

そこをカバー・サポートするのが福祉だと思うんだけどな。違うのかな。支援者の視点から見れば、自助会に行くってことは、自分が動く意欲があるということ。リフレーミングで支援体制考えていくって、福祉の基本だよね?

何か、論点がズレてきたな。

私が言いたいのは、あれです。

・自助努力をするスキルがある=社会適応力が高い人が、自助努力タイプとなる

・自助努力をするスキルがない=社会適応力が低い人が、結果として他力本願タイプになっている

という見方はできないかな?ということ。

この場合、「他力本願じゃなくて自助努力をしろ!」とハッパをかけるより、「自助努力をするためのスキルを身につけていきましょう」というメッセージの方がしっくり来ないかな?

しかし、「意識的に自助努力を怠っているであろう、極々狭い範囲の発達障害当事者」に向けてのメッセージだとしたら、「他力本願じゃなくて自助努力しろ!」という内容はしっくりくるな。でも、そんなに狭い範囲の当事者にアプローチするもんだろうか?気になるところです。

▽ポイント:「定型と発達は違う」と二分することが、自分たちの首を絞めているのでは?

(1)線引きは使いようかもしれない

「定型と発達障害者は違う」「私とあなたたちは違う」という区別が溝を深くするのではないか?というメッセージは、非常に大事だ。数年前の私にこの本を読ませてあげたい。

ただ、1つ引っかかるのは、いわゆる定型発達の人は、「自分たちと同じはずなのに、コイツは無能だ」と見なすこともある…ということ。線引きされていないからこそ発生する無理解や差別もある。逆に言えば、線引きされるからこそ得られる理解や協力もある。特にグレーゾーンの人に対しては。福祉の分野ではスペクトラムでも、医療では診断上「スペクトラムのこの基準からこちらに入ると言える」「スペクトラムのこの基準からこちらに入るとは言えない」という二分がされるわけだし、職場、家庭と、その当事者が所属するコミュニティや概念によるんじゃないかな。究極に言えば、本人にとって有益で周囲に迷惑が掛からないのならば、そう考えることでスムーズに努力していけるのならば、「定型と発達障害者は違う」というメッセージを正しいものとして置いてもいいんじゃないだろうか。二分してる本人は、心からそう思っているのか?そう思うことで自分のプライドを保とうしているのか?単にスペクトラムの概念を知らないだけなのか?定型発達側からそのようなことを言われた過去があるのか?…そこまで分析して、そこを解決してから、初めて「二分すべきではないよ」という声かけが出来るんじゃないか。(現実そこまでの支援ができるものか、という課題はあるだろうが)

「本当はどうか」も大切だけど、「今、どうしたらいいか」を考える柔軟性が、現実の生活では求められるんじゃないだろうか。

で、話を戻して。基本的に、「人と人が分かり合う」ことは出来ない。ここは同意できる。

(2)「誇り高き当事者様」という表現は不快です

「だから、誇り高き当事者様のプライドを理解してもらおうとするのは少し傲慢だ」というような表現があった。これは不快だ。めちゃめちゃ不快。なぜなら、それは間違っていると私は思うからだ。

プライドを、理解してもらおうとすることの、一体何が悪いのか?

この場合プライドの定義が何なのかによっても話は変わるけど、「私はあなたと違ってこうやってきたんだ」「私はあなたと違ってこうなんだ」というのは、『誇り高き当事者様のプライド』というよりは、『確立してきた当事者のアイデンティティ』であり、それは尊重されるべきだろう。

人と人は、わかりあえない。あなたと私は違うし、私とあなたは違う。「話せばわかる」というタイプの人は、自他分離ができていない子供だ。

だからこそ、「私はあなたと違って、こうなんです」という説明は、必要不可欠なものだ。

でも、「発達障害者と定型発達者は二分すべきではない」という考えの基に「発達障害者→定型発達者への説明は傲慢」と仮定するならば、定型発達者→発達障害者への説明も、定型発達者→定型発達者への説明も、同じく傲慢ということになってしまう。「私はあなたと違って、こうなんです」と説明する、相互理解に不可欠なやりとりが、全て傲慢になる…という妙な事態が産まれてしまうのだ。(これも結局、二分して話すことになってしまっているけれど。)

発達障害者側が理解してもらおうとすることが勝手で傲慢だという式は、間違っている。障害をスペクトラムと捉え、定型発達・発達障害者を二分しないのならば、それはたちまち「人が理解してもらおうとすることが勝手で傲慢だ」という式にすり替わってしまうからだ。成り立たないのだ。

誰だって、誇り高きプライドを、確立してきたアイデンティティを持っている。いわゆる定型発達の人も、いわゆる発達障害の人も。誰だって。

それは、誰だって尊重されるべきだろう。どうして「誇り高き」「当事者様」なんて表現で揶揄されなくてはいけないのか?

これは、揚げ足取りか?重箱の隅を突く行為か?そうは思わない。「定型発達と発達障害者を二分するのは良くない」という重要なメッセージを掲げている本だからこそ、この方程式はきちんと揃えるべきじゃないのか。暗に秘められていたメッセージとか、省略した数字とかがあるなら、教えてほしい。私の頭の中で、=に斜め線が付いています。

 

▽最後に

現実は、毎日を生きながらえるのに精一杯だ。

自助会に参加し、なおかつ自助努力をし、実施、改善していく…それが出来る人は、もはや障害者と呼べるのか?

障害の大きな基準は「社会的に困るかどうか」ということだ。そんなPDCAサイクル回す余裕ねえよ!と苦しんでいる人は、一見「他力本願」だけど、見方を変えれば「自助努力をするスキルがない」障害者なのかもしれない。差し伸べられた手を握るも何も、「今手を差し伸べられているのだ」という理解が出来ていないだけかもしれない。

また、文中では他力本願タイプの発達障害者を庇護される子供と揶揄しているが、発達障害者はあくまで支援を受けるべき障害者だ。支援とは、庇護することではない。発達障害者は子供ではない。私は比喩表現を理解するのが苦手なのだが、「良質な介入があれば、その当事者は庇護する子供ではなくなる」と言えば伝わるか。うん。そうじゃないですかね。

そして最後に。「なぜ発達障害者はバカなのか」という問いに対して、発達障害者がバカでなくなったら、もはや彼/彼女は発達障害者と分類されなくなるのではないか?」そして、「なぜ発達障害者の支援者はバカなのか?」という問いを立てたい。

良い本は賛否両論を産むけど、悪い本も賛否両論を産むぜ。私はなんだか、「ある種の方向に向かいたいという希望がある発達障害者/支援者」限定の、狭い考えに感じてならない。

ケンカを売ってるわけでは毛頭ないけれど、同じ人間同士の、わかりあえないあなたと私。ぜひお話してみたいもんですね…とか言っちゃって。

 

以上、バカな発達障害者が『なぜ「発達障害者」はバカなのか』を読んでみた感想でした。

当事者本人に考えさせる目的で言えば、ひとまず私においては、大成功です。こうして賛否両論を産み出す効果まで狙って書かれたんだろうけど、でもなあ。なんか、それは大当たりなんだから、中身をもう少し論理的なものにしたらいいのにな。

…とか書いてみたけど、私は非常にせっかちで、あまのじゃくで、速読してしまうガールなので、読解ミスや論理の飛躍があるだろうと思います。誰でも良いのでぜひ指摘してもらえると嬉しいです!なかなかこんなに長文書くこともないと思うしね!深夜のノリって怖いな〜それではおやすみなさい!